恒例のドクダミ採取をした。
私がいない時は母が一人で、いる時は二人でしていた。
花の頃の7月がいいのだが、雨が多く乾燥状態が
良くないので、お盆の庭掃除を兼ね盆前にする。
今年は庭木がやたら伸びていたので、前庭と後ろ庭の
アジサイをのこぎりで根元から切った。
玄関先のウツギも切った。
前と後ろの雑草を抜き、南天のカットをしていると
それだけで午後3時もゆうに過ぎた。
羊歯は根っこから取らないと来年もはびこる。(ふ~っ)
紅葉の小さな実生が5,6本生えていた。
他、鳥が運んできたのは、大木になりそうで引っこ抜いた。
椿が1本あり、これは残しておいた。
昨年のドクダミがかなり残っているので、今年は少しの
量にとどめた。
蕗数本とミョウガ3コが今年の収穫だ。
「時行きて 父母なき家に 一人思う
過ぎ去りし あの頃の日々」
7月27日は父の命日だ。暑い日だった。
和尚さんの都合がつかず29日の法要になった。
3つの法要を併せて行った。
・父の命日
・母の盆供養
・先祖の盆供養
和尚さん、きく江、叡子、一穂の4人
法要のあと、「父の50周年ももうすぐですね」
「50周年をされるのは珍しいです。早く亡くなったとかですね。」
「母の50周年はできないねえ。私たちはいないもの」
「和尚さんはお幾つですか」
「33歳です」
「ああ、よかった、よろしくお願いします」
「一穂、洪太がいますのでよろしくお願いします」
思わず口に出て、はっとした。母の50周年をするのは
娘達ではなく、孫になるのだ。
数日前、母の夢を見た。
白いきれいな顔をして病院のベッドにいた。
「母ちゃん、帰ってきたの
あ~っ、よかった。これで嬉しいことを報告できる」
あ~っ、よかった。と新しい病室を見回している内に
母がベッドからずり落ちた。骨、折ってない、
大丈夫か。と急いで膝に抱き上げた。
顔はふっくらとしてきれいだったが
体は小さく軽く、「ああ、こんなに小さくなって」
ここで目が覚めた。
本当に、あと数ヶ月生きていてくれたら
嬉しい報告ができたのに・・・・・
大学時代、母によく叱られていた友人が聞いた。
「一番ほしいものは何?」
「無いなあ。立って半畳、寝て一畳って言うからね。」
友人と分かれて気が付いた。
一番ほしいもの。それは父、母、叔母が一緒だったあの頃だ。
夕食の手伝いをし、皆で一緒に食卓を囲んだ。
母が着物を着て、きれいにして父と出かけて行った。
おみやげが楽しみだった。
庭で虫を捕まえて遊び、2Fで妹や友達と遊んだ。
あの頃だ。ほしいものは。
決して戻ることのない時だ。
1週間経ってもはっきりと思い出す
母の姿がある。
母が植えたミカンの木の下で、タロー(猫)の
面倒を見ていた。ふと玄関に目を向けると
母が帰ってきていた。
「あっ、そうや!今日は退院して帰る日や。
(玄関開けておいてよかった。。。)」
ほっと、胸を撫で下ろした。
薄い緑とグレーのブラウスを着て、グレーの
ベストを着ていた。ズボンは少し濃いグレーだった。
「よく、帰ってきたねえ」
母を子供のように膝に抱いた。
夢はここで終わった。退院の迎えを忘れる
いつまでも呑気な娘だ。
11月2日午後7時から母の一周忌をした。
父の時代から懇意にしている滋賀県堅田から
いつもの和尚さんに来ていただいた。
大きな声ではっきりとお経を唱えてくださり
気持ちのいい思いがする。
「妙相院法楽日芳大姉 一周忌 追善菩提」の
卒塔婆も持ってきてくださった。
いつもの花屋さんから一対の花を届けてもらった。
仏壇に父と母の写真が並び、子供時代を一緒に
過ごした母の妹(叔母)も埼玉から来てくださった。
父が亡くなってあと数年で50年になる。
「あんたがはやく亡くなるから」と叔母は父の
写真に言った。
ほんとうにいろいろなことがあった。
父がいたころは6人家族で愉しかったなあ。

9月28日から10月3日まで中国だった。
行き先はいつもの杭州で、1984年初めて中国に行った
杭州との縁が、今や太極拳だけではなく仕事でも
人のつながりでも思いもしない形で続いている。
今回は珍しく秋の中国行きだったので
新米を持っていった。皆、大喜びだ。
帰ってその同じ新米を食べた。
「美味しい!!!」粘りと甘みがある。
昨年の新米の季節には母に新米を持っていく
ことも思いつかなかった。
きっと喜んで食べただろうに・・・・・・・・・
新米のお粥でもよかったのに・・・・・・・・
間もなく1年になろうとするが、思い出すのは
母にしてもらったことの大きさと重さだ。
時が経つにつれ、何もしてあげられなかったなあ、
という思いが強くなる。
初盆
九州中津の叔父(弟)から、くるくる回る灯篭が送られてきた。
父の時も水色の灯篭がくるくる回っていた。



暑さで伸び気味のタロー(玄関、靴箱の上で)
1年3ヶ月入院していた病院で一番の仲良しだった
福丸さんが亡くなられた。まだ70歳過ぎだった。
「よっちゃんとこに遊びに行く」と日に何日も
遊びにきては、子供をあやすように遊んでくれた。
母は福丸さんには特別な感情が湧くらしく
顔を見ては泣いていた。時にはしきりに話を
していた。分からないままに「うんうん、そんなに
泣いたらあかんで」と頬を撫でてくれていた。
病室は斜め向かいで、お互いに体を乗り出しては
相手を気にしていた。
昨年秋ごろから固形物が喉を通らなくなり、
それでも必死に流動食を呑み込んでいた。
この頃から、あんなに明るかった笑顔が無くなり
暗い顔に変わっていってつらかった。
新鮮で良いお花を届けてくれる松村花店から
母、「宮本ヨシ子」の名前でお花を届けた。
「きれいな花やった」とお通夜に行った妹から聞いた。
京都府立医科大学付属病院・アイバンクから
表彰状と虎屋の羊羹が送られてきた。
表彰状は母と妹に各々送られたものだった。
母への表彰状は感謝の言葉が、妹へのは
無事移植ができたことへの感謝だった。
アイバンク登録には家族の同意書が要るのだが
移植には急を要するので、いざその場になると
家族の素早い連絡や協力が必要になる。
お通夜には一番にお花が届けられ、その後
「目の見えない人が見えるようになりました」という
感謝状が届いた。
母はいなくなったが、人の役にたったのが
せめてもの慰めだ。
写真は「京都府立医科大学付属病院・
アイバンク」からのお花